名曲名盤縁起 ウィーン・フィルを誕生させたニコライの人気作 ニコライ〜歌劇《ウィンザーの陽気な女房たち》序曲

ドイツのロマン派オペラの歴史を飾る作曲家・指揮者オットー・ニコライが、39歳を前にベルリンで夭逝した日。職業音楽家の父の跡を継ぐように強制されたニコライは、16歳で放浪の旅に出る。23歳でローマに赴き、イタリア伝統の教会音楽やオペラの作曲法を身に付けた後、ウィーンの宮廷に仕える音楽家になり、31歳で宮廷楽長にまで上り詰める。その時、ニコライは現代の私たちに至福の喜びを与えてくれるものを組織した。ウィーン・フィルハーモニー協会、つまりウィーン・フィルを生み出してくれたのである。
作曲家ニコライの最高傑作が、亡くなる前年、シェイクスピアの戯曲を題材にして書いた歌劇《ウィンザーの陽気な女房たち》だ。ドイツ以外の国での上演は稀だが、その序曲はとても人気が高い。ロマン派オペラらしい優美な序奏の後、軽やかで流麗な2つの主題によって、いかにもイタリア風のブッファにふさわしい、活き活きとして爽快な音楽だ。


悲劇のチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレを偲ぶ日

天才は風が吹き抜けるごとく疾走して逝く局地的に天才が集中するのは地球の地軸と関係があるのかザ・ビートルズがイギリス(ここではイングランドと限定しておきたい)の第一番の音楽家であることに過去にも未来にも変わることはないでしょう。そして2番目の不動の存在がジャクリーヌ・デュ・プレだ。
1987年10月19日に悲惨な最後となりました。1945年生まれですから享年42歳と成りますが演奏家としての実質稼働年数はわずかに12年。
プロ・デビューは16歳、すぐにスターに成り、21歳の時のアメリカ公演でも未曾有の成功を収めた。
チャーミングな彼女のダイナミックな演奏姿はBBCが収録していた奇跡。BBCにとっても、殊更素敵なことだった。このブレーク前の録音があることは後に彼女のファンになる愛盤家には嬉しい事だ。

16歳のデビューで“演奏家としての実質稼働年数はわずかに12年”ということは28歳で現役を去った計算になる。亡くなったのが42歳なら、14年感動していたの?という思いが湧いてくる。


《ショパンの話》19世紀男子はウエストのくびれが大事だった。

ジャジャジャジャーンが、ベートーヴェンの《運命交響曲》のフレーズであることは誰もが知っている。
音楽というものは言葉で表し難く、歌の歌詞を引用していても小説や漫画の注釈に曲名と歌手、レコード会社が記してあったり JASRAC の承認番号が示されている。
そうした中でもベートーヴェンの《運命交響曲》のフレーズは例外だ。同じ例外のフレーズに《葬送行進曲》があり、《結婚行進曲》がある。
漫画でそれなりに擬音で描かれているだけでもフレーズが耳に再現される。面白いもので刷り込みだろうか。

チョピは 19 Century Boys
ダーン、ダーダダー、ダダ、ダダダダダー。テレビゲームで敵に負けてゲームオーヴァーになると耳にするフレーズ。
《葬送行進曲》であるが、これは誰の曲?


街中でカフェーを開こうかというお店のすてきな音楽の演出に

雷も午後4時頃には聞こえていました。大雨、洪水に加えて、強風と波浪の警告が熊本には出ています。金曜日から降り続けている雨。天気予報では週明けまで続くみたいです。地上波ローカルのTKUテレビ熊本では番組終了後、直ぐに大雨情報に画面が切り替わりました。5月に熊本動植物園でTKUのイヴェントが開かれた時、クマモンにそっくりの熊本県知事、蒲島さんが講演をされた際に熊本は日本各県の中でも一番雨が降る県だと言う事。それが地下水の豊富な理由。庭の足洗の蛇口を開くだけで、2階の屋根の上までホースの水が届くのですから他県からすれば凄いことなのでしょうね。

早く梅雨の後、架かる虹を楽しむ水撒きをしたいものです。それまでは一月は激しい雨が降る日が多いのでしょう。そんな雨の激しいさなか、日常は移りゆくものです。春3月に自宅からバス停に行く途中にあるディーラーのショーショップが移転するという案内が張られていて、建物が建て直されていました。金曜日の激しい雨の中、そこで作業がつづけられていて明るく大きな窓。中程には厨房のような設備。そして表に幾つもの同じ形のテーブルが並べる用意がされていました。何だろう、喫茶店が出来るのかなぁとみていたのですが、どうやら隣に隣接しているパン屋さんがカフェーを開くようです。直接なのか分かりませんがパン屋のマスターや店員さんが手伝われていたので関係があるのでしょう。ふぅ〜ん、どういう音楽を流すのかなぁ。そして思い浮かんだのが、この『パリ 1913-1938(米MERCURY SR90435)』でした。

アルバム・タイトル通り、20世紀初頭、世界大戦直前の近代フランス音楽集です。20世紀のフランス・クラシック音楽と言えば今年アニヴァーサリー(生誕150年)のクロード・ドビュッシーが筆頭でしょうけれども、彼はパリ市内が砲撃に晒されている最中にアパートの一室で亡くなります。このレコードで聴く4曲は、今でこそ馴染みは薄い楽曲ですがパリでの評判は良いものでした。戦時歌謡というのが日本にあるように爆撃で荒廃するなんて思いもしない、明るい未来を期待する息吹を聴くことが出来ます。熊本にいても目につくのが新装している建物や、新しく家が建て替わっていく姿。『TSUNAMI』の記憶から生まれ変わっていく今の日本にぴったり添う音楽ではないでしょうか。


❝神の手で創られた❞ 史上最高の女流ピアニストの日

美人コンテストに出て、優勝しないでもお仕事が来たり、新しい出会いが始まる。むしろ優勝者よりも面白い未来があったりします。国際コンクールは、入賞することは偉業ではあるけれども達成ではない。遺業に帰されるものではありません。その後に意行とするために活かして欲しいというのが多くの国際コンクールの、開催の本意でしょう。アメリカの名の知れたピアニストのコンクールは、国際的な演奏会を一度だけ公演してくれる。このコンクールの優勝者は10代が代表しています。

結果、あまり話題に残らなかったとしても演奏家にとってカーネギーホールで演奏出来たことの思い出。客席を埋める沢山の観客の前で演奏するといった体験は、歳若いうちに体に感じておくべきだ。これってウィーン・フィルが若い指揮者にオファーするのにも似ている。物は試しと合わせてみて、楽団員に納得出来ないところがあれば二度とオファーはしないのだそうです。

マルタ・アルゲリッチに魅了されて、もう何十年だろうか。女傑といえるような情熱的な空を醸している特異な存在だ。彼女が国際ショパン・コンクールの優勝者で女性ピアニストで最初の存在だったということは、レコードに魅了された後で知りました。確かにFMから聞こえてきた時、国際ショパン・コンクールで優勝したピアニストとしての選曲だったかもしれない。それが世界的に知らせるパワーツールであったのは疑いない。南米アルゼンチンに生まれた彼女が、14歳でヨーロッパに渡った時、もう一人前以上の腕前で24歳で国際ショパン・コンクールに優勝したのも予定通りだと言われた。アルゲリッチのショパンは人気が高い。ピアノ独奏のレコードの中で一番高額ではないでしょうか。リリース時のプレス枚数が少なかったわけではなく、同時期に日本盤を買って聴いていた人たちには予想通りでは無かったでしょう。


よい仕事とは

プレリュード
高校の音楽室。男子生徒がピアノを弾いていた。
エチュードのようなシンプルな指使いのようだけど、静かで落ち着いた気持ちにさせてくれる。
メロディーは鼻歌にでも出来る楽しさもあるのに、不安や悲しみを忘れさせてくれるようだ。

「なんて曲?」
「ショパンの雨だれ。」
「モーツァルト?」
「ううん、ショパン。」

「うーん、ショパン? 知らないな。
 でも、良い曲。」

女子生徒は目を閉じて聞き入った。教室の窓から差し込む光が少女の体全体を包み込んでいくようだった。
霧が晴れていくような曲だ。雨だれってタイトルなの、変わっているわね。女生徒は心のなかで思った。

その高校の音楽室の壁には大作曲家の肖像が並んでいた。


平和の音楽を作曲したい バッハの息子の誕生日の願いは両親への感謝 周りへの感謝

東北大震災が発生してから3年。あの日、130人ほどの子供が生まれたそうですね。その子どもたちが三歳になる。
幼稚園、小学校とこれから通うようになるのでしょう。
今では3月11日が大きな扱いとなっていくのでしょうか。
ずっとずっと昔、3月8日に東京で大空襲がありました。良く3月9日は、サンキューの日として両親や近所に感謝を感じる日となりました。

音楽の父バッハ。

来月から子どもたちも小学校の音楽教室で、ズラリと並んだ肖像画や彫像を見ながら「音楽の父バッハ。音楽の母ヘンデル。交響曲の父ハイドン・・・」と先生から学ぶのでしょう。
外国の昔の人は髪が巻き毛で金髪で、福々しく優しい眼差しで。王様やお姫様たちの前で光りに包まれて誇らしげに演奏している姿をイメージしてしまいます。

クラシック音楽の最初の作曲家は修道尼。誰もが買える楽譜出版をした作曲家としてはモンテヴェルディが最初のヨーロッパ中に知られる名前でしょう。
ヨハン・セバスティアン・バッハ以前のドイツ三大Sに数えられる作曲家たち。同時代のイタリアの作曲家ヴィヴァルディ。バッハの先輩筋でバッハの息子たちも多大な恩恵を受けたテレマンを差し置いてバッハを音楽の父としたのは、その息子カール・フィリップ・エマニュエル・バッハでした。